盛岡手づくり村

南部曲り家

南部曲り家の始まり

みちのく岩手は遠く奈良時代から馬産地として知られていました。平安時代の終わりごろ、平泉の藤原氏を滅ぼした源頼朝は甲斐の国(今の山梨)の牧監(馬政官)であった南部光行をこの地方へ配置しました。南部氏がこの地方の馬産に力を注いだため、南部馬は軍馬としてその優秀性が認められようになりました。やがて馬が農耕馬として使われると家族同様の扱いをし、いつでも目が届くようにと、主屋と馬屋を棟続きにするようになりました。

現代に残る南部曲り家

現在岩手県内において見ることができる南部曲り家は、江戸時代後期から明治、大正期のものに限られ大変貴重なものです。盛岡手づくり村の南部曲り家は県北部松尾村から移築復元された150年程前の大きな建物でしたが、平成12年8月3日この「南部曲り家」は全焼致しました。多くのお客様からこの地域の文化的建造物の「南部曲り家」の復元の声が寄せられ、雫石町御明神にある柳原家から新たに「南部曲り家」を寄贈いただき平成14年12月19日移築復元いたしました。

南部曲り家の見どころ

南部曲り家の屋根は茅葺き屋根です。雨漏り防止のため傾斜が急であり、厚さは50cm前後あります。断熱効果に優れ、夏は涼しい造りになっています。形は入母屋になっています。かまどの煮炊きの暖かい煙が馬屋を通って煙り出しから出ていくので、冬の寒さから馬を守っていました。

また、南部曲り家の壁は全て土壁になっていますが、小舞下地壁(こまいしたじかべ)と言われ、竹、木、葦(よし)などの材料を麻や藁などの縄で編んで下地をつくり、荒壁土を塗り、裏側から裏返し塗りをして仕上がりとする工法で造られています。

南部曲り家に入るとニワと呼ばれる土間があります。農具や収穫物の収納に使われていました。ここには「やだがま」と呼ばれるかまどがあり、これで馬の飼料を煮ていました。

馬屋の入り口に取り付けられているませ棒は、馬の大きさに合わせて外したり高さの調節が簡単にできるようになっています。馬屋の土間は少し掘り下げられていますが、これは敷きわらを馬に践ませ、田畑の大事な堆肥とするためです。

常居 常居は居間であり、神棚や仏壇が置かれていました。また、布を織る女性のための作業場でもありました。
納戸 納戸は寝間として使われ、防寒のため窓はありませんでした。万年床と呼ばれたわら布団から現在のような布団を使うようになって、寝間は座敷に移動し、納戸は物置になりました。
座敷 特別なお客様の接待や祝事、仏事等の行事に使用しました。
台所 天井から吊された自在鍵に鍋をかけた炉で煮炊きしていました。

昔は広い屋敷廻りに、ドクダミ、ゲンノショウコウなどの薬草やスグリ、グミなどの果実の木が植えられていました。盛岡手づくり村の南部曲り家の脇には平成14年6月5日に東京銀座の朝日新聞社跡ある石川啄木の歌碑の前で銀座の商店会から盛岡市長に寄贈された「銀座の柳三世」が植えられています。

無料でご利用いただけます

子供会など団体の無料休息施設としてご利用いただけます。詳しくはお問い合わせ下さい。

お問い合わせ